とうきょう、ときめくめくるめく。

96年生まれ、東京・高田馬場在住のサブカル戯れ日記。

『白昼夢』 出演/いとうせいこう 中井りか

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 『白昼夢』というフジテレビ系列26:25~26:55の時間帯でやっているバラエティー番組が面白い。内容は20歳になる中井りか(NGT48)が「博覧強記の権化」いとうせいこうとともに「大人修行」するという番組である。

 まあ、なんとも80年代に思春期を終えた40代が深夜のお酒のおともにするには良さげな番組である。ただシンプルに、サブカルチャーに「普通の女子高生」の中井りかがどのような反応をするのかを見るのは非常に楽しい。

 私が特にオススメする回は伊藤ガビンと宇川直宏をゲストに迎えた回である。80年代から日本のサブカルチャー界を牽引してきた3人を前に中井はデジタルネイティブ世代特有の感覚で応える。例えば宇川が高尚な理論的に実践してきたDOMMUNEを、中井はSHOWROOMにおける彼女自身の一次的な体験を回路にして理解する。この会話が心地よい。

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 いとうせいこうをはじめとする錚々たるクリエイター陣とデジタルネイティブのミドルマンとして中井は非凡なキャラクター性とアイドル力を発揮している。


 

『anone』 脚本/坂元裕二

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  坂元裕二が今作をもって「連ドラをおやすみ」することを自信のインスタグラムで発表した。これにより『anone』は坂元裕二史におけるマスターピースとなった。*1

 このドラマには世代のレイヤーが5つあった。上から、亜乃音(田中裕子)と万平(火野正平)の世代、青羽(小林聡美)と持本(阿部サダヲ)さんの世代、中世古理市(瑛太)と中世古結季(鈴木杏)と青島玲(江口のり子)の世代、ハリカ(広瀬すず)と彦星(清水尋也 )の世代、そして最後が青島陽人(守永伊吹)の世代の5つである。
 近年のドラマ作品ではありえない世代の厚さである。たいていのドラマはおおよそ2〜3世代間の物語しか描けない。これだけでも坂元裕二の脚本技術は改めて大いに評価できる。
 この5世代にわたる共同体が立体的に織り成す日常*2がこのドラマのもっとも大きな魅力だと私は感じた。

 5世代にわたるがゆえに、我々は彼らの“生”と“死”の以前と以後を想像することができる。
 たとえば、最終話で青羽は持本を見取った翌朝に歯磨きをしていた。本来、ドラマのお約束を参照にすれば、持本の死後の直後がまさか青葉の歯磨きのシーンだとは思わない。ただ、ここまで彼らの日常を見ていた我々は持本さんの死後、普通に歯を磨く青羽さんを見ても驚かないだろう。“生”と“死”は常に彼らの日常と同一地平線上にあり続けた。

 おそらくドラマが終わったあと現れる彼らの(疑似的な)子供、孫の代までこの共同体は続いていく。この共同体の永遠性と対比されるのが最終回で亜乃音、青羽、ハリカ、そして持本でみた流星群の刹那性だ。

 おそらくこの流星群はシリーズ全体を通して描かれた偽札を巡る彼らの冒険と相似する。彼らは少しの非日常を孕んだ、超時間的な日常のなかで今日もどこかで生きているのである。*3

 

*1:10年後にはおそらく『anone』以前と以後で分けて語られるだろう。

*2:繰り返し描かれる食事のシーンがこれを補完する

*3:結局、中世古くんも日常に回収された

『ドラえもん のび太の宝島』 脚本/川村元気

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 劇場版『ドラえもん のび太の宝島』は気鋭のヒットメイカー、川村元気を脚本に迎えたことで話題となっていた。例年、DVDもしくは配信でチェックしていた自分も今年は劇場まで足を運んだ。

 現状それほど評判のよくない川村元気脚本の『ドラえもん』だが自分はうまくいっていたと感じる。

 そもそも、今回の『ドラえもん のび太の宝島』(以下,『宝島』)は1998年に公開された『ドラえもん のび太の南海大冒険』(以下 ,『南海大冒険』)をもとにしている。

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 『南海大冒険』との主な違いとしてまず、しずかちゃんと賊長の娘セーラとの交流が描かれることがあげられるだろう。
 
 セーラとしずかは共に船内の食堂で働く。その食堂はマリアという女性のもとで運営されており、船内では一応「治外法権」だとされている。
 思えば『ドラえもん』は非常に男性的な作品だったのではないかとふと思った。しずかちゃんがシャワー室を覗かれるシーンや着替えるために草むらに隠れたりするシーンは劇場版『ドラえもん』だけに関わらずシリーズを通じて頻出する。また、しずかちゃんの存在自体がのび太の獲得するべき女性性を担ったキャラクターがためにしずかちゃん本人の幸福に関しては、『結婚前夜』のエピソード以外多くは描かれてこなかった。

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 しかし、今回は明らかにしずかちゃん個人の幸福な姿が描かれる。「いまどき」の女の子らしく同世代の友人とフレンチトーストを食べるしずかちゃんは極めて新鮮だ。
 この交流を通じて川村元気は現代性をともなったしずかちゃんというものを描くことに成功していた。

 また、賊長の息子の描かれ方も『南海大冒険』と異なる。『南海大冒険』で描かれた賊長の息子であるジャックはのび太よりも年少で少年性が強い。対して、『宝島』で描かれたフロックはすでに海賊船においてメカニックとして働いており、劇中では天才メカニックだった亡き母親の才能を引き継ぐ存在として描かれる。
 

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 ジャックに比べフロッグは父親に対してコンプレクスを抱く年頃であり、今作ではそのコンプレックスによる葛藤が大きな主題と結び付いている。そして、そのコンプレックスを克服するものこそが他でもない母親から引き継いだメカニックの才能だった。 『「のび太の」宝島』という表題ながらもっとも鮮烈に描かれるのはフロッグの成長であった。

 そんなフロッグに比べドラえもんは存在感が薄い。ドラえもんがポケットからひみつ道具を出すはやさよりもフロッグがコードを書き換える方がはやく、ドラえもんがのび太にからかわれるシーンまである。

 自分の横に座っていた女子大生と思われる二人組は終演後「フロッグのプログラミング的なやつ、あれすごかったね.......。私も見習わなきゃ。」と感想を語り合っていた。*1

 加えて、衝撃的なことにドラえもんは冒頭においてインターネットの存在を認める。注意しなければ聞き逃してしまうくらい唐突に認めるが、フロッグの能力と合わせて考えるとここでも川村元気が『ドラえもん』という作品に現代性を伴わせようとした努力が伺える。

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 おこのみボックスやほんやくこんにゃくなど、ドラえもんの道具のいくつかが「すこし」も「ふしぎ」でなくなった現代において今回の川村元気の試みは結果として『ドラえもん』という作品がもつ射程を保つことに成功したと感じる。

 それは、たしかに従来のかたちとは異なるかもしれないが『ドラえもん』がもつ想像力そのものが色褪せることはないだろう。私はこれまでのドラえもんよりも、これからのドラえもんに期待し続けたいと思う。
  
 

*1:「SF」に頼らなくとも自らがクリエイトできる世代ならではの感想であり、おそらく川村元気はこのような時代性に自覚的だ。

『シェイプ・オブ・ウォーター』 監督/ギレルモ・デル・トロ

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 キリスト教的に“水=water”は真実のメタファーらしい。

 ギレルモ・デル・トロの最新作『シェイプ・オブ・ウォーター』は1960年代のアメリカを舞台に、軍機密期間で掃除婦として働くイライザと研究対象として連れてこられた「半魚人」との恋を描いている。

 この異色のラブロマンスについて考えるために、まずイライザと「半魚人」との恋を阻む軍人、ストリックランドに注目したい。

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 彼は劇中を通して“まとも”になろうとする。ただ、その“まとも”はアメリカ的白人主義&マチズモ思想のもとに定義されるものだった。愛国心をともない、金髪のいかにもな女性を妻にし*1、『THE POWER OF POSITIVE THINKING』を読み、キャデラックを購入する。
 しかし、彼は“まとも”な人間になりきれない。「半魚人」を手懐ける過程で指を食いちぎられ五体満足とはいえない状態になり、せっかく購入したキャデラックもイライザが「半魚人」を救出する過程で傷つけられる。
 要するにストリックランドとは20世紀の理想の象徴であり、映画は彼を通してその存立不可能性を描く。

デル・トロ監督も「古い時代」についてインタビューで言及している。

  
 
 イライザは、ストリックランド的な“まとも”の外部に位置する存在だ。幼少期に声を失い、黒人とLGBTの親友をもち、毎日の日課として機械的にオナニーをする。彼女の家の階下には映画館があるのだがおそらく彼女は行ったことがない。*2あまりにも単調な日常にやってきた「半魚人」と彼女は深い関係になる。
 
 映画の描写としてイライザと「半魚人」が親密になるスピードがはやいのだが、これはイライザの声帯を傷つけたのが「半魚人」自身であり、イライザは「半魚人」によって「罪」を背負わされ、また「半魚人」自身は自らが傷つけたイライザによって「救済」されたのではないか、という物語の空白を補う妄想も掻き立てられる。

 デル・トロ監督曰く、“水”はいかようにも姿かたちを変えるがゆえに愛の象徴として劇中で機能する。研究所の内装、掃除婦の服装*3、出勤するバス、ライムパイ、キャデラックなど随所にアカプルコブルーが用いられている。まるで劇中の全ての人間が“水”のなかにいるかのように。

 ただ“水=愛”はあまりにも多様なゆえにそのなかに溺れる人間もいるが、「真実の愛」に辿りつけたイライザと「半魚人」がどうなるかは書くまでもないだろう。

*1:おそらく彼にとって「家族」や「息子」は人生の背景でしかない。この家庭内でのストリックランドのキャラクター描写が素晴らしかった。 

*2:終盤の映画館のシーンがあまりにも美しいのは、これまでの彼女の日常の単調性と対置されるからだろう。

*3:「半魚人」と恋に落ちてから彩度の高い赤色に変わる。

『乃木坂工事中』2018年3月11日回 出演/生駒里奈 齋藤飛鳥

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 乃木坂46の20枚目のシングルは長年グループを支えてきた生駒里奈の卒業シングルとして注目を集めていた。最近の中高生は残念ながら知らないかもしれないが、生駒と言えばグループ初代のセンターであり、初期のシングル群は生駒里奈というアイドルを象徴するといっても過言ではない。

 生駒里奈とは AKB以降の成長至上主義的アイドルを象徴するセンターだった。*1ここにおける成長とはCDシングルセールス枚数や、グループ/個人としてのメディア露出量といった“アイドル戦国時代”における縦の成長のことだ。
 
 『ぐるぐるカーテン』〜『君の名は希望。』の頃の生駒にともなうのは成長のための汗と涙だった。

 しかし、2013年夏の『ガールズルール』以降、『太陽ノック』(2015年夏)以外のシングルでは生駒は白石麻衣や西野七瀬にセンターを譲ることになり、2016年夏には『裸足で、summer』で斎藤飛鳥がセンターに抜擢されることになる。

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 グループとしてのCDセールスはミリオン近くをキープし、コンサートはチケット入手が困難になり、名実ともにトップアイドルに登りついたこの頃に乃木坂46のセンターに就いた斎藤飛鳥。
 彼女は縦の成長が終わった(そして、それにファンが疲れた)あとの“アイドル元禄時代”を象徴する横の成長を担保することになる。*2
 
 横の成長はメンバー自身の作家性や、メンバー同士の関係性によりグループとしての表現を豊かにする。乃木坂が設立以来行ってきた個人PVのクリエイティビティーに注目が集まったことや、「軍団」がこの頃から形成されたことがこの“元禄”性を象徴しているといえるだろう。
  
 齋藤飛鳥とは、ずばりこの“元禄”時代の申し子である。その作家性にはたびたび注目され2017年にはMONDO GROSSOとコラボして『惑星タントラ』を発表した。

 
MONDO GROSSO / 惑星タントラ (Short Edit)


 公式サイトによるとこの楽曲は齋藤飛鳥が「文学少女」だというエピソードから制作されたらしい。この「文学少女」の作家性は今年放送されたドキュメンタリー番組『7RULES』においてもいかんなく発揮されていた。

 大江健三郎全集に興奮したり、ひとり焼肉をしたり、壁に寄りかかるという(あまりにも詩的な)癖を披露したドキュメンタリー。
 
 番組内でのスタジオトークでは、オードリーの若林が「(齋藤飛鳥は)いまの時代にあっているのかもしれない」とコメントしていた。
  
 少し筆致にすぎるかもしれないが、この“アイドル戦国時代”から“アイドル元禄時代”へのパラダイム、ひいては生駒里奈から齋藤飛鳥へのパラダイムは様々なサブカルチャー領域のパラダイムとパラレルだと感じる。
 例えば漫画という領域においては、バブル期に日本を席巻した『少年ジャンプ』的な右肩上がりの成長物語*3から日本そのものの成長率が右肩下がりになって以降「等価交換」を絶対条件とした『鋼の錬金術師』や「日常系漫画」と呼ばれる作品が人気を獲得していったように。

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そして先日の『乃木坂工事中』では齋藤飛鳥が爆発した。

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飛鳥 初心に返ると今ままで見なかったものとか、今まで見なくていいやと思っていたものも気になっちゃって。なんか、ファンの人がどういう気持ちで応援してくれているんだろうとか、みんなが……うーん…….なにを思って……わたしと接してくれているのかがわからないなと思ってて。

日村 なんか生き詰まっているわけではないんでしょ?

飛鳥 人生にですか?

日村 人生と言ったらあれだけど(笑)。

飛鳥 なんか生きる詰まっているというか、普通の人が学ぶであろうことを学ばずにきたというか、若いうちから乃木坂に入ったからかもしれないけれど、どうしたらいいかわからないなと思ったときに、その選択の一つが私は本を読むことだったりするけれど、本を読んでもわからない。

  過去にこんなに煩悶するアイドルを見たことがあるだろうか。

 齋藤飛鳥という乃木坂46のエースにいま流れるのは表現にともなう汗と涙だ。

*1:乃木坂のメンバーのなかで生駒だけが唯一AKBとの兼任経験があった。また、同時期に乃木坂46と兼任した松井玲奈は乃木坂がともなう表現性を最も希求していたAKBメンバーだった。

*2:この頃に発売されたアルバムの『それぞれの椅子』というタイトルがこれを象徴している。また、このアルバムセールスの時期にしきりに「『乃木坂らしさ』とは何か」というコンセプトを打ち出していたことにも注目に値する。「乃木坂らしさ」の探求は個々のメンバーの自意識の探求と密接に関わっている。

*3:生駒は「ジャンプ好き」で知られ、『ジャンポリス』や『オー・マイ・ジャンプ〜少年ジャンプが地球を救う〜』にレギュラー出演している。