とうきょう、ときめくめくるめく。

96年生まれ、東京・高田馬場在住のサブカル戯れ日記。

『シェイプ・オブ・ウォーター』 監督/ギレルモ・デル・トロ

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 キリスト教的に“水=water”は真実のメタファーらしい。

 ギレルモ・デル・トロの最新作『シェイプ・オブ・ウォーター』は1960年代のアメリカを舞台に、軍機密期間で掃除婦として働くイライザと研究対象として連れてこられた「半魚人」との恋を描いている。

 この異色のラブロマンスについて考えるために、まずイライザと「半魚人」との恋を阻む軍人、ストリックランドに注目したい。

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 彼は劇中を通して“まとも”になろうとする。ただ、その“まとも”はアメリカ的白人主義&マチズモ思想のもとに定義されるものだった。愛国心をともない、金髪のいかにもな女性を妻にし*1、『THE POWER OF POSITIVE THINKING』を読み、キャデラックを購入する。
 しかし、彼は“まとも”な人間になりきれない。「半魚人」を手懐ける過程で指を食いちぎられ五体満足とはいえない状態になり、せっかく購入したキャデラックもイライザが「半魚人」を救出する過程で傷つけられる。
 要するにストリックランドとは20世紀の理想の象徴であり、映画は彼を通してその存立不可能性を描く。

デル・トロ監督も「古い時代」についてインタビューで言及している。

  
 
 イライザは、ストリックランド的な“まとも”の外部に位置する存在だ。幼少期に声を失い、黒人とLGBTの親友をもち、毎日の日課として機械的にオナニーをする。彼女の家の階下には映画館があるのだがおそらく彼女は行ったことがない。*2あまりにも単調な日常にやってきた「半魚人」と彼女は深い関係になる。
 
 映画の描写としてイライザと「半魚人」が親密になるスピードがはやいのだが、これはイライザの声帯を傷つけたのが「半魚人」自身であり、イライザは「半魚人」によって「罪」を背負わされ、また「半魚人」自身は自らが傷つけたイライザによって「救済」されたのではないか、という物語の空白を補う妄想も掻き立てられる。

 デル・トロ監督曰く、“水”はいかようにも姿かたちを変えるがゆえに愛の象徴として劇中で機能する。研究所の内装、掃除婦の服装*3、出勤するバス、ライムパイ、キャデラックなど随所にアカプルコブルーが用いられている。まるで劇中の全ての人間が“水”のなかにいるかのように。

 ただ“水=愛”はあまりにも多様なゆえにそのなかに溺れる人間もいるが、「真実の愛」に辿りつけたイライザと「半魚人」がどうなるかは書くまでもないだろう。

*1:おそらく彼にとって「家族」や「息子」は人生の背景でしかない。この家庭内でのストリックランドのキャラクター描写が素晴らしかった。 

*2:終盤の映画館のシーンがあまりにも美しいのは、これまでの彼女の日常の単調性と対置されるからだろう。

*3:「半魚人」と恋に落ちてから彩度の高い赤色に変わる。