『15時17分、パリ行き』 監督/クリント・イーストウッド
映画『15時17分、パリ行き』は巨匠クリント・イーストウッドの監督最新作である。『ハドソン川の奇跡』(2016)以来となる今作はフランスで起きたテロ(タリス銃乱射事件)に出くわし、そこでテロリストに立ち向かった若者3人についての物語だ。
作品内では思っていたよりもテロそのものに関する描写は少なく、テロリストに立ち向かった2人の米兵と1人の民間人の生い立ち、青年期の入隊と日常、そしてフランスでテロに出くわす契機となった彼らのヨーロッパ旅行が綿々と描かれる。
幼き頃の彼ら3人は揃って学校では腫れ物扱いにされていた。ただ、部屋には『フルメタル・ジャケット』のポスターが貼られ、歴史の先生からノルマンディ上陸作戦についての資料をもらうほど
「戦争に行けば何かある」
と「戦争」というものに対して恍惚としていた。
青年になり、スペンサーとアンソニーは軍隊に入る。しかし、スペンサーは希望していたパレレスキュー隊に不合格となってしまう。
スペンサーは母子家庭で「父」が不在だ。イーストウッド作品のテーマは通底して<父性>だった。
パラレスキュー隊に不採用となったアンソニーは成熟できなかったのだ。*1その後、アンソニーは希望しない部署に所属するが訓練所では幼年期のよう邪険にされる日々が描かれる。
そうした軍役の最中、休暇を使って訪れた欧州で事件に巻き込まれるのであるが、その彼ら3人の欧州旅行は極めて牧歌的に描かれる。
母親以外の女性がこの欧州旅行のなかでスペンサー目線で描かれるのだが、そのカット割りがスペンサーの未成熟な男性性を象徴しているという点で面白い。*2
そしてついに、アムステルダム「15時17分」発、「パリ行き」の電車のなかで事件に遭遇する。スペンサーは他の兵隊よりもとりわけ得意だった柔術でテロリストを取り押さえ、好まない部署で必死に学んだ応急処置でケガ人の命を助けるのである。
この場面ではじめてスペンサーの成熟がイーストウッドによってカタルシス的に描かれた。
この映画、驚くべきことにテロリストに立ち向かった3人と事件に出くわした乗客たちの各役は全て本人自身が演じているのである。映画史上に残るこの驚くべきキャスティングについて映画評論家の町山智晴がイーストウッド本人にインタビューしている。
僕、インタビューに行ったら、(イーストウッドは)最初は俳優に演じさせようと思って本人たちに聞き取りをしていたんですって、ずっと。
「あの時は、どうだった?」、「この時はどうだった?」というふうに、その3人の英雄たちにね。それを、いろいろ聴いていってメモに取ってそれを俳優たちに演じさせるのが面倒臭いなって思ったんですよ、イーストウッドは笑。
「お前らがやりゃあいいじゃん」って。
イーストウッド、なんともパワフルなおじいちゃんである笑。『ハドソン川の奇跡』のラストシーン/エンドロールでも本人たちをスクリーン上に登場させたが、本作はそれ以上である。
現実/虚構の境界線を曖昧にする試みは視聴環境(サブスクリプション/VR)からも映像技法(クリストファー・ノーラン/松江哲明&山下敦弘/『ハードコア』)からも度々アプローチされているが、こんな荒技が可能なのはイーストウッドの鍛錬された技術があってこそだろう。
『15時17分、パリ行き』はイーストウッドのこれまでとこれからを十分に堪能できる作品である。