『アンナチュラル』 脚本/野木亜紀子
このドラマは「お約束」をことごとく爽快に破る、「これが“リアル”だ!」と言わんばかりに。婚約者を殺された女は涼しげともみれる顔でタバコを吸い、恋人を殺された青年は憎悪のままに仕返しする。*1
この“リアル”を描くドラマのプロットとパラレルなのが、司法解剖医(週刊誌の記者)という職業だ。彼らは“システム”の周辺ににいながらその虚を暴くために“リアル”に対峙する。*2
彼らが立ち向かう“システム”は国家をはじめとして、*3、大量生産ライン、仮想通貨、ライブチャットプラットフォームと現代に生きる誰もが関わらざるを得ないものだ。だからこそ、『アンナチュラル』は司法解剖という回路を用いながらも我々の日常に深く潜り込んでくる。
また“システム”という大きなものに対して1つの死体/人生という一見して小さなものを対峙させることで、よりその「小さな」誰かの人間性が際立つ。
三澄ミコト(設定は33歳)が立ち向かうのは家族という社会的な“システム”でありながらそれは彼女の人生において、母性の回復と密接に関わっている。これはたびたび繰り返される「女と仕事」の話や、ミコト自身が母親に殺されかけたこと、義理の母とのいびつながらも親密な関係性に象徴される。
対して、中堂系が立ち向かうのは司法という“システム”でありながらそれは彼の人生において、父性の獲得と密接に関わっている。これは言わずもがな恋人の死因解剖に司法的な手続きを無視して携わったことや、中堂自身の中空な生活描写に象徴される。
最終回ではついに彼らは自らの人生と直接的に対峙することになる。彼らの人生の命題に、また決別した婚約相手(ミコト)や同僚(中堂)とどう折り合いをつけるのか、最終話でミコトと中堂が変化しいかに成熟するのか、楽しみで仕方がない。
<語り足りないあれこれ>
・市川実日子が凄まじくいい。オリーブ女子、もしくは高踏派少女漫画的中性キャラ(『ラヴァーズ・キス』『blue』)から、『シン・ゴジラ』以降のリケジョキャラ(vaio、『アンナチュラル』)への女優としての進化が恐ろしく美しい。
・twitterのフォロワー数が今期ドラマ中最多人数を誇っている。3/10 の時点で約27万人と次点の『トドメの接吻』と10万人の差をつけている。視聴率は良いとも悪いとも言えない『アンナチュラル』だが録画視聴回数やTVerでの再生回数が好調らしい。
タイムシフト計測が始まってドラマ制作者が喜んだのは「見られてるじゃん!」ということ。それまでドラマは視聴率とれないからもうだめと言われまくっていたけれど、録画でなら他ジャンルよりも見られているということが数字で証明された。それに胡座をかける状況ではないけれど、希望は生まれた。
— アンナチュラルな野木亜紀子 (@nog_ak) 2018年3月3日
R-1グランプリ2018 優勝/濱田祐太郎
2018年のR-1グランプリは漫談師・濱田祐太郎の優勝で幕を下ろした。
話しかけたいのに話しかけられないくらいの「距離」にいる<他者>と視聴者を繋ぐことをテーマにしたテレビ番組(『月曜から夜更かし』、『世界の果てまで行ってQ』、『激レアさんを連れてきた』)が確かな人気を獲得している今日*1において、濱田祐太郎は視聴者の前に新たな<他者>として立ち現れた。(「お茶の間dポイント」の高さ!!)*2しかし、彼の漫談で描かれる人たちは<他者>ではなく、いつの日かの我々自身だ。「使わないのに一応教室に黒板を設置する」ご都合主義や「心の目」なんかを信じてしまう精神主義に誰もが一度陥ってしまったことがあるだろう。濱田祐太郎の面白さとはこの逆説さだと感じる。
おそらく彼はテレビを「視ない」し、テレビのルールなんて知らない。それゆえに彼の振る舞いは驚くほど「リアル」だ。誰がお笑いショーレースの賞金プラカードをもらった際に「(500万円を)お前ら盗るなよ!!」なんてボケをかませるだろうか。
ここ3年のR-1グランプリは全て「リアル」を伴ったた芸人が優勝した。虚構度が高い“ひとりコント”はいよいよ時代に取り残されてしまっている。コントの行間を読み込む能力が本当に視聴者になくなってきていると感じる、どうしても。*3
今年のR-1は“お笑い”の潮目が劇的に変わった大会だった。とりあえず私は一人のお笑いファンとして今週(もしくは来週かな??)の『ワイドなショー』を楽しみにしたいと思う。
『15時17分、パリ行き』 監督/クリント・イーストウッド
映画『15時17分、パリ行き』は巨匠クリント・イーストウッドの監督最新作である。『ハドソン川の奇跡』(2016)以来となる今作はフランスで起きたテロ(タリス銃乱射事件)に出くわし、そこでテロリストに立ち向かった若者3人についての物語だ。
作品内では思っていたよりもテロそのものに関する描写は少なく、テロリストに立ち向かった2人の米兵と1人の民間人の生い立ち、青年期の入隊と日常、そしてフランスでテロに出くわす契機となった彼らのヨーロッパ旅行が綿々と描かれる。
幼き頃の彼ら3人は揃って学校では腫れ物扱いにされていた。ただ、部屋には『フルメタル・ジャケット』のポスターが貼られ、歴史の先生からノルマンディ上陸作戦についての資料をもらうほど
「戦争に行けば何かある」
と「戦争」というものに対して恍惚としていた。
青年になり、スペンサーとアンソニーは軍隊に入る。しかし、スペンサーは希望していたパレレスキュー隊に不合格となってしまう。
スペンサーは母子家庭で「父」が不在だ。イーストウッド作品のテーマは通底して<父性>だった。
パラレスキュー隊に不採用となったアンソニーは成熟できなかったのだ。*1その後、アンソニーは希望しない部署に所属するが訓練所では幼年期のよう邪険にされる日々が描かれる。
そうした軍役の最中、休暇を使って訪れた欧州で事件に巻き込まれるのであるが、その彼ら3人の欧州旅行は極めて牧歌的に描かれる。
母親以外の女性がこの欧州旅行のなかでスペンサー目線で描かれるのだが、そのカット割りがスペンサーの未成熟な男性性を象徴しているという点で面白い。*2
そしてついに、アムステルダム「15時17分」発、「パリ行き」の電車のなかで事件に遭遇する。スペンサーは他の兵隊よりもとりわけ得意だった柔術でテロリストを取り押さえ、好まない部署で必死に学んだ応急処置でケガ人の命を助けるのである。
この場面ではじめてスペンサーの成熟がイーストウッドによってカタルシス的に描かれた。
この映画、驚くべきことにテロリストに立ち向かった3人と事件に出くわした乗客たちの各役は全て本人自身が演じているのである。映画史上に残るこの驚くべきキャスティングについて映画評論家の町山智晴がイーストウッド本人にインタビューしている。
僕、インタビューに行ったら、(イーストウッドは)最初は俳優に演じさせようと思って本人たちに聞き取りをしていたんですって、ずっと。
「あの時は、どうだった?」、「この時はどうだった?」というふうに、その3人の英雄たちにね。それを、いろいろ聴いていってメモに取ってそれを俳優たちに演じさせるのが面倒臭いなって思ったんですよ、イーストウッドは笑。
「お前らがやりゃあいいじゃん」って。
イーストウッド、なんともパワフルなおじいちゃんである笑。『ハドソン川の奇跡』のラストシーン/エンドロールでも本人たちをスクリーン上に登場させたが、本作はそれ以上である。
現実/虚構の境界線を曖昧にする試みは視聴環境(サブスクリプション/VR)からも映像技法(クリストファー・ノーラン/松江哲明&山下敦弘/『ハードコア』)からも度々アプローチされているが、こんな荒技が可能なのはイーストウッドの鍛錬された技術があってこそだろう。
『15時17分、パリ行き』はイーストウッドのこれまでとこれからを十分に堪能できる作品である。
『国境のない時代』出演/坂道AKB
「<少女>たち」が現代は「国境のない時代」だと歌うこの曲は革命的だ。
そもそも、<少女>と<国家>は本来、コインの表と裏だった。社会学者の宮台真司は『サブカルチャー神話解体』のなかで近代における<少女>の出現についてこう分析している。
明治末から大正にかけて確立した、イエから世間そして大日本帝国へと連続する<秩序>のあり方に、対応していると言っていい、<少女>は「清く正しく美しく」という<理想>の受容を媒介として、この<秩序>と一体化したのである。(略)<少女>は確かに性からは隔離されていたが、しかしまさにそのことによって、性を一般的に日陰のものとする帝国の<秩序>と一体化していたのだ。
この<少女>と<国家>の関係性は、70年代から90年代にかけての戦後サブカルチャーによって<少女>そのものの存立不可能性が証明されたとともに、解体されたというのが宮台氏の有名な主張だ。
ただアイドルという資本主義の鬼子はこの社会に、(まがいものの)<少女>というものを再び提示した。アイドルは(建前としては)「性からは隔離」されている存在であり、「清く正しく美しく」をテーマにしている。
再び我々の目の前に現れた<少女>はその存在そのものをして、<国家>というものを否定している。そして、彼女たちの身体はSHOWROOMやyoutubeによってセカイへと浮遊することができている。
この、坂道AKBというプロジェクトは注目に値する。作詞家・秋元康は度々、自己言及/メタ的な作詞をすることが指摘されている(アイドルに対しての『アイドルなんて呼ばないで』『清純フィロソフィー』、またアイドルのコミュニケーション/体験的消費に対しての『太宰治を読んだか』、『ハートエレキ』などなど)が、坂道AKBとして発表している2曲はどちらも共に高度な自己言及に成功している二曲だ。
坂道AKBシリーズ1曲目の『誰のことを一番愛している』はアイドルを推すという、成熟に辿りつかない無限ループ的(メビウスの輪)な恋愛に対しての曲であり、『国境のない時代』は先述したよう、<国家>が我々のメンタリティーのなかで存立不可能になった現代の<少女>たちと<少年>(=ファン)に対しての曲である。
80~90年代懐古主義的なこの国の文化空間において、我々ミレニアル世代の心情を直接的に刺激する秋元康と、それを体現する<少女>たちが今後どのような未来を提示してくれるのか、非常に楽しみである。
『FROLIC A HOLIC ~何が格好いいのか、まだ分からない。~』 脚本・演出/オークラ
FROLIC A HOLIC 『何が格好いいのか、まだ分からない。』をライブビューイングで見てきた。東京03と脚本家のオークラが主催しているこのシリーズは今回で3年ぶり2回目の公演になる。
『30minutes』から『漫画みたいにいかない。』まで、オークラ作品の大ファンである私はこの公演をとても楽しみにしていた。
今や三谷幸喜をしのぐであろうシットコムの天才、オークラは今作でも脂がのりにのりまくっていた。
もっとも震えたのが「お笑い裁判」の幕だ。公演の大筋から見るとは飯塚悟志(東京03)が地元へ帰ったきっかけとなるエピソード。なのだが、この一幕は丁寧に包んで持って帰り文字に起こして一言づつ愛でたいくらいに素晴らしかった。
あらすじはこうだ。“20XX年”、芸人の数が激増しネタもとの奪い合いが芸人間で頻発。そのため“ネタ元パクった/パクってない裁判”が行われるようになっていた、という設定である。なんともまあお笑いファンをここまで震わせてくれるかという設定だ。
浜野謙太(在日ファンク)/豊本(東京03)が演じる若手コンビ、「拍手笑い」と角田/飯塚(ともに東京03)が演じるコンビ、「ピンボール」が「田舎に帰る直前にも関わらず馴染みの定食屋で新メニューを頼む」という『ネタ』をめぐって論争が行われる。
とにかく短いスパンでボケを入れていくスタイルを取る「拍手笑い」は「田舎に帰る直前にも関わらず馴染みの定食屋で新メニューを頼む」というのはあくまでもたくさんあるボケのうちの一つとして使ったにすぎないと断言する(ゼロ年代のキングコング、NON STYLE的)「勢いのある若手芸人」に対し、角田/飯塚演じる(東京03のあり得た現在としての)「日の目を浴びない中年コント職人」は大ボケに値するそんな秀逸な『設定』はそこで一番の笑いが起こるよう構成を考えるべきであり、その『設定』の価値を全く理解していないが由に取ってつけたように「田舎に帰る直前の、馴染みの定食屋で新メニューを頼む」『設定』を適当に扱えるのだとと説く。
結局この「裁判」は"拍手笑い"のファンの気持ちを両者が考慮した結果、無罪となる。しかしそのファンは結局「お笑いファン」をやめ「声優ファン」になったとかで、 そして"拍手笑い"も数年後に解散したことが描かれ、この幕は終了する。
この作品を通じて2回繰り出された飯塚の「なんてコミカルなんだよ!」という角田へのツッコミしかり。なんともまあ、お笑い批評的、あまりにもお笑い批評的である笑。
「お笑い批評的」といえば、オークラは『Quick Japan』誌上で『20代芸人A君は笑いで天下がとれるのか?』という連載を行なっている。
これは、高齢化(『さんまのお笑い向上委員会』)の一途をたどる現在のお笑い界でいかにして20代の芸人がどのようにすれば「笑いで天下をとれるか」をシュミレーションする連載である。
「30年以上に渡り変化しない権威」下にある「テレビ」という回路ではなく、「ネット/劇場への観客動員」の回路から視聴者の時間をハックする、そしてそこで「思いついたら即実行のスピード感と企画性」(youtuber)ではなく「仕事量と緻密さ」で勝負せよというのがオークラの基本的な主張である。
この主張における「仕事量と緻密さ」を体現した作品こそがまさに、今回の『FROLIC A HOLIC 何が格好いいのか、また分からない。』だと感じる。
「何が格好いいのか」というこの作品の副題は「何が本当の『笑い』」なのかを巡るオークラの尽きない問いであり、終幕にハマケンが歌っていたよう、それはいつまでも答えが出ない問題なのであろう。
4月には、現在日本テレビ系列で放送されているドラマ『漫画みたいにいかない。』の舞台もある。これからもオークラの一挙手一投足から目が離せない。